アニメーター金田伊功
力尽きつつもやっと書けたので、おこがましいとは思うけど投稿。
世代的に実体験よりも伝聞が多いので注意。間違い指摘も歓迎します。
原体験世代から発信されたものを読みたい。
はじめに
- ■アニメーターMAD (金田伊功は1:55辺り〜)
遅きに失してしまった感が無きにしも非ずで、しかもこういう話は、興味の無い人にはホントどーでもいいことなんだけど、それでも後に遺したいと思うし、知っていてくれたら嬉しいなあと思って書く。
金田伊功はアニメーターだ。アニメーターってのは簡単に言うと、絵に動きを与える人のことで、そのままでは何一つ動くはずのない「絵」の世界を、「アニメ」に変えてしまう人のことだ。彼らが動かすものはキャラクターだけでなく、建造物や自然のような背景、煙や爆発のような効果など多岐に渡り、腕の良いアニメーターにかかれば画面に描かれる全て、視点を意識すればカメラごとだって動く。動かそうと思わなければ動かないのは当たり前だけれど、動かそうとさえ思えば何だって動かせるんだ、アニメってやつは。
とはいえ、実際に動かすには充分な予算と時間が必要だ。アニメに限ったことじゃないけど、技術を持つ人が居たって、仕事をしてもらうにはお金が要るし、時間が無ければ雑なものしかできないんだから。
産業としてのアニメが日本で花開いたのは1958年の「白蛇伝(はくじゃでん)」。東洋のディズニーを掲げて設立された東映動画の、日本初、劇場長編カラー作品からだった。映写機用フィルムの標準は秒間24コマ、これは24枚の連続写真で1秒の映像を作っているということで、ディズニーの中期作品、また、それを目指した東映の白蛇伝も、24コマのフィルムに対して24枚(動きの少ない個所でも12枚)の絵を使っている。白蛇伝の予告映像が Youtubeに上げられているので、その美しさの片鱗をぜひ味わってほしい。
白蛇伝の成功を受け、その後も東映は「少年猿飛佐助(1959年)」「西遊記(1960年)」「安寿と厨子王丸(1961年)」など、劇場長編作品を多く公開していった。この中の1つ、「西遊記」は、手塚治虫の「ぼくはそんごくう」を原案としたもので、本人の希望もあり、手塚治虫自身も参考人として東映に招かれている。西遊記の公開翌年の1961年には、「手塚治虫プロダクション動画部」が設立され、これを前身として翌1962年に虫プロダクションが正式に成立する。手塚治虫にしてみれば、東映への招聘には、敵陣視察くらいの意気込みもあったかもしれないし、もしかしたらここでの経験が彼をテレビアニメへと引き寄せたのかもしれない。
ディズニーを目指した東映のフルアニメーション志向に対し、手塚治虫率いる虫プロが、30分のテレビアニメを毎週送り出すために採りいれたのは、リミテッドアニメーションと呼ばれる手法だった。
動くことの、時間経過と映像変化との忠実さを目指すフルアニメーションに対して、リミテッドアニメーションは、それを限定(例えば、効果的な個所だけ動かすなど)することで抽象的な表現を可能にしようという目的のものだったが、ハンナ・バーベラ等によって主に省力化のために用いられた。手塚治虫はそこに、平均8枚/秒の動画、バンク(再使用)、止め絵の併用など、低予算での製作体制を練っていった(が、実際には競合他社の参入を抑制するため、テレビ局に低価格で売っていたのでそれでも赤字。制作費を節減し、放送権やグッズの売買で補填する、現在まで続くテレビアニメの商業モデルがこの時できあがった)。
もともとは目的の表現のために、動画枚数の削減や、その他の手段があったものが、「少ない枚数で動かす=リミテッド」と捉えられるようになったのは、こういう背景からだ。そして、1966年に放送が開始する日本初の30分連続テレビアニメ「鉄腕アトム」から、日本のアニメは、この意味でのリミテッドアニメとして、独自の進化を遂げることになる。
実際んところ、1秒8枚ペース(1話24分とすると8枚x60秒x24分=11520枚/話)でも充分作業量オーバーで、結局は1話3000枚程度が標準になったとか。全話の中でやりくりして、ここぞという個所に枚数を多く割り当てるので、特にアクションを必要とする作品で、回ごとに差があったりするのもこういった事情から。ちなみに1話3000枚の場合、1秒あたりの平均枚数はなんと2枚! アニメが動くってすげえな。
アニメーター金田伊功
そのアニメの世界、動くものを役者と捉えれば、アニメーターはすなわち役者だ。もちろん人によって演じ方に違いがあって、それは表現方法だったり、動きのタイミングだったり。この点、圧倒的に強烈な個性を持つ役者だったのが金田伊功で、アニメの作画を考える時、「金田前・後」と言われるほど、彼が後の世代に与えた影響は大きい。特に80年代は多数のフォロワーを生み出し、最近でもグレンラガン監督の今石洋之らが有名だ。
彼らを、当時のアニメファンを、虜にしたのはいったいどういうものだったのか。「金田パース」「金田動き」「金田光り」などの名が付けられ、模倣された多くの手法、実際に見てもらったほうが判りやすいよなーと思ってたら、ベストな動画を発見。パースと独特な動きについての解説が簡単にされている。
- ■動画『アニメの魔術師 金田伊功』(7:51) BSアニメ夜話より
プロメシュームの部分なんかは、今だとモーフィングでやるようなとこだけど、当時誰も想像し得なかった表現で、しかもこれを手書きでやっちゃったんだからすげえとしか言えない。頭ん中どうなってんだ。
アニメをよりリアルに見せるためには、極端に言えば、時間あたりの枚数を増やすしかない、というのが当時の常識だった。ディズニーは実写のような滑らかな動きを目指し、東映はそのディズニーを目指した。東映の劇場カラーアニメが世に出て15年、テレビアニメのリアリズムの追求もまた実写作品を向くもので、リアルな映像を追求すると実写に行き着く、というのは当時の普通の感覚だった。漫画原作のストーリーを表現する作家性の高いものが求められたことと、映像作家志望で映画から入ってくる者が多かったのは一因としてあると思うけれど、ともかく日本のアニメにおけるリミテッド手法の原点は、表現ではなく省力化にあって、表現の欲求としてはむしろフルアニメが目指した実写作品に向いていたわけだ。
その最大の転換点が、金田伊功だ。
もちろん、そこに至るまでの様々な先達の努力を抜きには語れないが、それまでに編み出されたものを発明とすれば、金田伊功のそれは、アニメ作画の主流が塗り変わる革命とも呼ぶべきものだ。氏の登場で、アニメの作画は1つの限界を超えた。枚数が少なければ、少ないなりの見せ方で生き生きと動かすことができるんだ、と。アニメのリアルと実写のリアルは同じじゃなくてもいいんだ、と。そういう意識改革を起こした人だった。
時代は70年代中期、ヤマトを境に「テレビまんが」は「アニメ」へとその呼び名を変えた。アニメ雑誌が続々と創刊され、作り手が注目される中で、特徴的な絵を描く金田伊功が取り上げられるのは当然のことだった。「ゲッターロボG(1975年)」原画、「大空魔竜ガイキング(1976年)」原画で、当時人気のロボットアニメジャンルにおいて最重要ともいえる「かっこよさ」の表現に成功すると、1977年にはいよいよ作品の顔、オープニングで原画を担当するようになる。
- ■1977 惑星ロボ ダンガードA OP
- ■1977 超電磁マシーン ボルテスV OP
- ■1977 激走!ルーベンカイザー OP
- ■1977 女王陛下のプティアンジェ OP
- ■1978 無敵鋼人ダイターン3 OP
- ■1979 サイボーグ009 OP
- ■1981 銀河旋風ブライガー OP&ED
- ■1982 魔境伝説アクロバンチ OP&ED
- ■1983 機甲創世記モスピーダ OP
- ブライガーと並ぶOPの代表作。
- 対象物が、残像あるいは光や影と一体のシルエットになって動くというのは
金田作画を見る上で重要なポイントだと思う。
特に009で透過光を用いてからは、光の表現が変わる。金田伊功に限らないが、70年代と80年代のアニメ、ぱっと見たときに感じる違いはここが一番大きい。上手なアニメーターは、水や炎や光や空気、といった目に見えないもの、形の無いものを描くのに長けていて、動きや世界をしっかりと自分の中にイメージできているのだなあと思う。金田伊功が「幻魔大戦(1983)」で見せた火炎竜は圧巻だ。
1984年公開の「風の谷のナウシカ」以降は、ジブリ作品をメインに移し活動する。テレビアニメにも関わるが、OPの仕事はしばらく間を置くことになる。OPで再び金田伊功を見ることができるのは1994年になってからだ。
この後、スクウェアエニックスに在籍。ゲームを活動のメインに移す。
- ■2003 半熟英雄対3D OP
- ■2004 DESIRE OP
- ■2005 半熟英雄4 7人の半熟英雄 OP
- パロディだらけ
- ■2006 ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU 後期OP(戸隠三郎名義)
- テレビアニメ作品の遺作。
- [1:19〜]が氏の作画。
トップアニメーターが集った、とても豪華なOPだが
その中でも金田伊功は異彩を放っている。- 一見してそれとわかる特徴的な表現
前述した、対象物と光や影が渾然一体となった作画は
進化を止める気配を見せない。- 究極映像研究所 - ガイキングオープニング 金田伊功の作画の進化
知らないところでもまだまだいっぱいあるんだろうけど、映像の転換点を挙げるとすれば以下の4つが一番大きなポイントになるんだと思う。
- 1958〜 : 東映劇場長編、ディズニーを目指したフル志向
- 1966〜 : テレビのためのリミテッド志向。出崎統による演出・技術の開発
- 1975〜 : 金田伊功の登場、金田系作画の隆盛
- 1990〜 : うつのみや理(さとる)、磯光雄ら、リアル系作画の台頭
中でも、金田伊功の描くアニメはとにかく、動きの魅力に満ち溢れるものだった。
80年代のアニメを見て育ち、それが標準となっているウチが心躍らされるのだから、当時リアルタイムで見ていた人は、いったいどれほどの衝撃を受けたことか。
90年代に入ると、リアル系と呼ばれる作画が台頭してくる。それは、呪縛から逃れようとするかのように、金田系作画と対流を成し、新たな主流を形作った。既存の主流に対するアンチテーゼが新たな創造の原動力となるのはよくあることだが、ここからも金田伊功の影響の大きさを読み取ることができる。
ヤマトで中高生以上の層へのアピールを果たしたこと。アニメブームの中でのアニメ雑誌の登場でスタッフに注目が集まるようになったこと。ビデオデッキの普及で作画研究が容易になったこと。後押しする様々な要因があって始めて注目される人間たり得たのだろう。もちろん好き嫌いもあるだろうけど、その独特の表現は紛れもなく金田伊功のもので、それが受け入れられてスタンダードを形作ったことは事実だし、現在のアニメーターは、氏の影響下にある人がほとんどだ。当時の視点でなければ解らないことも沢山あるけれど、こと金田伊功においては、現在だけを見てもその存在の偉大さは感じ取れる。晩年も映像表現の先鋭さは他の追随を許さず、絶え間ない進化を見せていただけに、日本のアニメが失った物は計り知れない。
奇しくも7/22は皆既日食に日本が沸いた日でもあった。ダイヤモンドリングに金田伊功を見た者も居た。その直後の訃報だった。
アニメーションの世界の太陽が
永遠に
隠れた。
もう見られない。
頭の中のニコ動で何回も再生する
あのワクワクと快感。